ドッグヴィル
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- Title
- Dogville
- Release date
- 2003
- Country
- DK / NL / SE / DE / UK / FR / FI / NO / IT
"天使か、悪魔か。"
ストーリー
ロッキー山脈の麓にある小さな村、ドッグヴィル。この寂れた村に暮らす人々はとても貧しく、変化を嫌い、新しいことを受け入れることを拒んできました。当然、よそ者に対しても非常に排他的であり、ドッグヴィルは孤立したコミュニティとなっていました。
ある夜、近くにあるジョージタウンの方向から銃声が響きわたります。ドッグヴィルに暮らす青年トムは、何やら物騒なことが町で起きていると思った直後、町から逃げてきたと思われる美しい女性、グレースと出会います。
彼女はトムに助けを求めますが、明らかに先程の銃声と関わりがありそうな様子です。いきなりのことに戸惑うトムでしたが、彼女を追って町からやって来たギャング達からグレースをとっさに隠し、なんとかその場を切り抜けることに成功します。
追われている理由を頑なに話さないグレースでしたが、偉大な作家になり、人々に道徳の素晴らしさを説くことを夢見ていたトムは、困っているグレースをギャング達から匿うことは道徳的に正しいことだと確信しました。
その翌日、トムは村人たちを集め、グレースをドッグヴィルに匿うことを提案します。訳ありで、さらによそ者であるグレースを村で匿うことに難色を示す村人たちでしたが、”グレースが村のために奉仕活動を行うこと”、”2週間で村人全員から気に入られること”を条件に提案が受け入れられます。
こうして、条件付きではありますが、ドッグヴィルでの滞在を許されたグレースは村のために奉仕活動を始めることになりました。村での彼女の行動は誠実そのもので、はじめこそグレースに対して懐疑的な態度をとっていた村人たちでしたが、徐々に彼女に対して心を開いていきます。
そして2週間後、グレースをドッグヴィルに受け入れるか、それとも拒絶するかを決める住民投票が行なわれました。その結果、彼女はこの小さな集落に居場所を得ることに成功するのですが…
キャスト・スタッフ
- 監督
- ラース・フォン・トリアー
- 脚本
- ラース・フォン・トリアー
- 出演
- ニコール・キッドマン(グレース)
- ポール・ベタニー(トム)
- クロエ・セヴィニー(リズ)
- ローレン・バコール(ジンジャー夫人)
- パトリシア・クラークソン(ヴェラ)
- ベン・ギャザラ(ジャック)
- ジェームズ・カーン(大男)
- ステラン・スカルスガルド(チャック)
- ジャン=マルク・バール(帽子を被った男)
「ドッグヴィル」について
今回の映画感想は「ドッグヴィル」です。
人間のエゴや欲望の前では、道徳や倫理など瑣末で無意味なものになってしまうということがよくわかる映画でした。”特定の人物が持っている絶対的な道徳心”に限って言えば、逆もまた然りというところも興味深かったです。
僕自身、映画の後半から倫理や道徳を忘れ、本来理性によって抑えるべき感情が心の中に渦巻いていました。さらに、その感情が求めているものを劇中のとあるシーンで得られたのですが、そのカタルシスたるや、ものすごいものでした。ダークサイドに堕ちる時というのは案外こういう気持ちなのかもしれません(笑)
また、そのシーンを観たことで、悪のカリスマに心酔している配下の方々の気持ちが少しわかったような気がします。失敗すると懲罰、最悪の場合殺されてしまうというのに、外道な主の為に身を粉にして頑張る配下の気持ちがよくわかりませんでしたが、その気持ちがわかったような気がするのです。
件のシーンを観てしまっては、目の前であんなものを見せられてしまっては、そうなってしまうのも仕方のないことだと思ってしまいます。本来、道徳的に避けるべきはずの”悪”を崇拝してしまう、そしてその瞬間、その人にとっては”悪”が”悪”ではなくなってしまうということが起きています。それくらいインパクトのあるシーンでした。
独特で非常に実験的な舞台セット
本作の特徴としてまず挙げられるのが、物語の舞台であるドッグヴィルの描写が、床に引いた白線とそこの場所が何であるかの説明が文字として描かれているということではないでしょうか。
それに加え、登場人物の紹介やその人物が抱えている悩みなどの心理描写をナレーションが説明してくれます。
正直、最初に劇中の舞台セットを見たときの感想は「え、何これ」でした。あまりにも実験的すぎて戸惑ったのを覚えています。これまで僕は、映画の建物や町並みはセットやCGで作ったり、ロケを行って撮影をするのが普通という考えを持っていたので、映画が始まってからすぐに「普通の映画のような描写がよかったなあ」と思ってしまいました。
しかし、映画を観ているとそんな自身の浅はかな考えは吹き飛ばされ、それと同時にこの実験的な舞台セットの意図を理解させられました。そうなるともう、『ドッグヴィル』の世界に引き込まれるまでにそう時間はかかりませんでした。
例えば、建物の中で会話をしているシーンがあるとします。普通の映画なら、建物の中でそのシーンを撮りますよね。そして同時刻に別の場所のシーンを見せたいと思ったら、カットインを入れるか、一方その頃…のように場面転換をしたりすると思います。もちろん、これ以外にもたくさんの手法があるとは思いますが、その見せたい二つのシーンを本当の意味で、リアルタイムに劇中で”同時”に見ることはできませんよね。
ところが、この映画ではそれが出来てしまうのです。あの実験的な舞台セットならそれが出来てしまうんですよ!部屋の中でなされているおぞましいシーンを見ながら、すぐ外では村人たちが世間話をしているというシーンを見ることが出来てしまうのです!
「だから何?それの何がすごいの?」と思われるかもしれませんが、実際にこの映画を観ていると、部屋の中で起きているおぞましい出来事のすぐそばで、何の変哲も無い日常を送っている人々がいるということが、こんなにも恐ろしい光景なのかということを教えられます。叩きつけられると言った方がいいかもしれません。
しかも、床に引いた白線を境に全く属性が異なる空間が二つ存在し、それを同時に見ることができるのは唯一、映画を鑑賞している自分のみです。そして、その異なる属性の二つの空間を同時に見るということが、これほどまでに背徳感を感じることとは夢にも思いませんでした。
そこで初めて、冒頭で述べた「人間本来の感情や本能は、理性が生み出した倫理や道徳を軽く飛び越えてしまう」というテーマがくっきりと浮かび上がってきたのです。観ている自分自身もこの映画の実験的なテーマに参加しているような気がしてきます。というかさせられています。そのことは、上記で述べたように”本来理性によって抑えるべき感情が心の中に渦巻いていた”ことからもわかるかと思います。
この実験的な舞台セットがなかったら、ここまで感情を揺さぶられることはなかったかもしれません。あらためて、映画というものの凄さを思い知らされました。
グレースという女性について
ドッグヴィルに逃げ込んできた美しい女性、グレース。追われる理由を頑なに話さないなど、何か引っかかるところがあるものの本人は誠実そのものです。道徳心に溢れ、慈愛と優しさに満ちた聡明な女性です。変化を嫌い、他者に対して非常に排他的なドッグヴィルの住人が、わずか2週間という短い期間で彼女に心を開いたことからも、グレースがいかに優れた人徳を備えていたかがわかります。
そして、人間社会が良くなることを本気で望んでいたりもします。その為に自分ができることがあれば何でもしようという気概も持っています。もし、自分がそれを実行するだけの力があるならば、その力を行使しないことは罪であるとさえ思っています。
そう、グレースは”あまりにも高潔すぎる”のです。
このグレースの人間性が、後々の展開に大きく関わってきます。本作を鑑賞後、彼女の”高潔すぎる人間性”をどう捉えるか、人によって大きく意見が分かれるのではないでしょうか。
「あなたは大義の為に自らの手を汚せますか?そして、その結果について正しかったか、正しくなかったかを判断できますか?」あるいは、「大勢を助けるために、ひとりを犠牲にしてしまった人に対して、なんと声をかけますか?そして、それは正しかったか、正しくなかったかを判断できますか?」
難しいですよね。本当に難しいです。このような設問に対して答えを出すことはとても難しいことなのです。だって正しい答えなんてないのですから…
それでも、答えを出せと言われたらメチャクチャ考えてしまいますよね。本作はこのような難しく繊細な問題についてどう思うか、どう感じるか、よく考えて正直に言ってごらん…と詰めてくる映画でもあると思います(笑)
ただ、グレースに関して言うならば「自分は何も間違ったことはしていない、世の中の為に道徳的に正しい行いをしている」と本心から思っていることだけは間違いないと思います。上記のような難しい設問にも迷うことなく、堂々と自身が導き出した答えを述べることでしょう…
ドッグヴィルの住人
排他的で変化を嫌う村人たち。そんな彼らも、グレースの人柄に触れることで少しずつ打ち解け、純朴な側面を徐々に見せてくれるようになります。そして”よそ者”であるグレースをドッグヴィルの一員として迎え入れてくれました。ギャングから彼女を匿うというリスクを負ってもなお、です。
どんな理由であれ、”困っている人を助ける”ということは道徳的には大正解と言えるのではないでしょうか。
事実、ドッグヴィルではグレースは村人たちのために、村人たちはグレースのために助け合うという美しい光景が生まれていました。日常の何でもないことを話し合ったり、ささやかなプレゼントを贈ったり、毎日が優しさに包まれていました。
しかし、その微笑ましい日常が一変することになります。ギャングだけではなく、警察までもがグレースを探しにドッグヴィルに現れたのです。この出来事を契機に、村人たちのグレースに対する態度が変わり始めます。
ここからがこの映画の肝の部分です。人間の本性が露わになり、それらがグレースへと向けられることになるのですが、その光景は異様で常軌を逸しています。そしてさらに、その異常な光景をドッグヴィルの住人たちが全くおかしいと思っていないということに戦慄させられます。この部分も、本作におけるテーマの非常に重要な点であるということを覚えておくといいかもしれません。
最後に
あまり映画の内容について触れたくはないのですが、本作『ドッグヴィル』には非常に不快で不愉快なシーンがたくさんあります。余計なお世話かもしれませんが、そういったものが苦手な方は鑑賞に少し注意が必要かと思います。
ただ、それらのシーンは「人間本来の感情や本能は、理性が生み出した倫理や道徳を軽く飛び越えてしまう」「人によって同じ”道徳”を説いても、全く意味合いや度合いが違ってくる」という本作のテーマを理解するのに絶対に必要なシーンだと、僕は思っています。そして、それらのシーンを乗り越えた先にとてつもないカタルシスが待っているということだけはお伝えしておきます。そこにこの映画の本質があると思います。
また、カタルシスを感じてしまった僕も、この映画のテーマにまんまと乗せられてしまったということですね。
あるいは、僕が本当の”道徳”を備えていれば、また違った感想を持ったかもしれませんね。しかし、それならそれでやはりこの映画のテーマにまんまと乗せられてしまったということにもなってしまいます。本当によくできた映画だと思いました。