ソイレント・グリーン

Image | IMDB

Title
Soylent Green
Release date
1973
Country
USA

"2022年 ニューヨーク ──人々は飢えていた。"

ストーリー

2022年、ニューヨーク。爆発的な人口増加と環境汚染によって、食糧問題は深刻を極めていました。

街には、仕事も住まいも失った貧しい人々が溢れ返っています。特権階級となった一部の富裕層を除き、多くの市民はソイレント社から週に一度だけ配給されるプランクトン由来の合成食品でなんとか生き延びているという悲惨な状況に晒されていました。

そんな中、ソイレント社は新たな合成食品「ソイレント・グリーン」を発表します。新製品の登場により、食糧問題は解決に向かうと思われましたが、配給開始後まもなく、「ソイレント・グリーン」は品不足に陥ってしまいます。十分な量の配給ができないということが、市民の不平不満を大きく煽ることになり、いつ暴動に発展してもおかしくないという危機的状況を招いてしまいます。

さらに、情勢不安によるものかどうかわかりませんが、ソイレント社の社長が自宅で殺害されるというセンセーショナルな事件が起きてしまいます。これを受け、ニューヨーク市警殺人課のソーン刑事が事件の捜査に乗り出すことになりましたが、彼は知りませんでした。この事件の背後には食糧危機を打開するための政府のおそろしい陰謀が渦巻いているということを…

キャスト・スタッフ

監督
リチャード・フライシャー
脚本
スタンリー・R・グリーンバーグ
原作
ハリー・ハリソン 「人間がいっぱい」
出演
チャールトン・ヘストン(ロバート・ソーン)
エドワード・G・ロビンソン(ソル・ロス)
チャック・コナーズ(タブ・フィールディング)
ジョゼフ・コットン(ウィリアム・サイモンソン)
リー・テイラー=ヤング(シェリル)

「ソイレント・グリーン」について

今回の映画感想は「ソイレント・グリーン」です。
ハリー・ハリソンの小説『人間がいっぱい 』を原作としたSFディストピア映画。

人口爆発、環境破壊、食糧問題、さらには行き過ぎた資本主義による格差の拡大など、ひと昔前に話題となっていたテーマを、近未来の荒廃したアメリカを舞台に描いています。

僕がこの映画を鑑賞してみようと思ったのは、とあるゲームがきっかけでした。そのゲームとは、1998年にスクウェアから発売された『ゼノギアス』というゲームです。このゲームの中で「ソイレント・システム」なるものが出てくるのですが、これがまた衝撃的なシステムでして、当時ゲームをプレイしていた僕はこの「ソイレント・システム」に大変なショックを受けたのを覚えています。(シタン先生…なんで先に教えてくれないんですか…ラムズの僕にはこのシステム関係ないじゃないですか…)

当時、この衝撃的なシステムはゲームオリジナルの設定だと思って疑いもしませんでした。しかし、どうやら「ソイレント・システム」には元ネタがあるらしいということを後に知ることとなり、色々と調べてみた結果、本作『ソイレント・グリーン』にたどり着いたというわけです。

もうひとつの人類の未来を覗くことができるという意味で、非常に興味深い映画でした。

「ソイレント・グリーン」の世界観

近未来のディストピアを描いている本作。この映画の世界はどんな世界なのか、じっくりと見ていきたいと思います。

まずは、上記にもある人口爆発。これにより多くの人々は仕事や家を失いました。さらに、膨れ上がった世界人口は甚大な環境破壊を引き起こし、自然環境は深刻なダメージを負ってしまいます。痩せた死の大地では作物は育ちませんし、家畜を育てるための飼料も確保することもできません。そうした状況の中で食糧不足という本作の核心とも言える問題が大きく持ち上がってきます。

この『ソイレント・グリーン』の世界、とにかく食糧が貴重です。新鮮な野菜はもちろん、牛肉にいたっては、口にすることはおろか目にすることすらもほぼ不可能というありさまです。食糧問題は市民生活に暗い影を落とし、市民の不平不満が徐々に募っていくことになります。

そこで、食糧問題を一挙に解決するために登場したのがソイレント社が生み出した「ソイレントシリーズ」と呼ばれる合成食品でした。一応、この世界にもまだ政府が存在しており、貧困に喘ぐ市民を救済するために(実際には暴動を起こされて政府をはじめとする特権階級側が倒されると困るからだと思いますが)ソイレント社と提携し、週に一度「ソイレントシリーズ」の配給を行っています。

とはいえ、食料難の時代に一体どこからこの合成食品の材料を調達しているのかという疑問が出てくるかと思いますが、この「ソイレントシリーズ」、海にいるプランクトンを原材料にしています。どうやら海には利用できる資源がわずかに残ってはいるみたいなのですが、そのわずかに残された海の資源も年々少なくなってきているようです。(これは詰み一歩手前というか、もう詰んでいる気がします…)

ただ、このような深刻な状況にあっても、全く影響を受けない人々も存在しました。その人々とは、行き過ぎた格差社会が生み出した、”富裕層という名の特権階級”に属する人々です。彼らが住むエリアには高級マンションが立ち並び、何不自由なく暮らしています。水や食料はもちろん、高級家具も一通り揃っています。(希少な資源は彼ら富裕層を中心に消費されていると思われます)そして当然のように、彼らが住むエリアは貧困と飢えに苦しむ市民が溢れる区画とは隔絶されています。

そしてもうひとつ、この”特権階級”の人々が暮らすマンションには、とても不愉快でおそろしい特徴があります。その特徴とは、美しい女性が”ファニチャー”と呼ばれ、一部屋に一人、備えつけられているということです。本作について、ディストピアを描いている割にはどこか小綺麗で丁度よくまとまっている世界だなという印象を持っていたのですが、この描写によって『ソイレント・グリーン』の世界観はやはり狂っているのだと改めて気付かされました。

このように『ソイレント・グリーン』の世界では、時として人間が「モノ」に例えられることがあります。上記の女性の例もそうですが、ソーン刑事の相棒であり、捜査の協力をしているソル老人もとある「モノ」の名称で呼ばれています。その「モノ」とは”本”です。その特徴として、「豊富な知識や経験をもとに的確な助言を与えたり、過去に起きた事件などを記憶しており、データベースのように情報を提示することができる」というものがあるのですが、知識や経験が豊富で色々な事に詳しいから、という理由だけで”本”と呼ばれている訳ではありません。

実はこの世界、後世に残していくべきはずの歴史や真実をはじめ、先人達が築き上げ、受け継いできた人類の叡智を記すものがほぼ残っていないのです。(富裕層だけが独占しているのかもしれませんが)それは書物であったり、データであったり、いろいろな形で存在しているはずでしたが、混沌を極める世界ではそれらが失われてしまっています。

その失われた情報を知っているのがソル老人をはじめとする、”本”と呼ばれる人々なのです。本来の”本”が担う役割を彼らが引き継いでいるため”本”と呼ばれていたんですね。

ですので、貧しい市民たちがそれらの失われた情報に触れるには、彼ら”本”と呼ばれる人々の力が必要になってくるという訳です。

では、”本”と呼ばれる人々は何故失われてしまった情報を知っているのでしょう。どこでその情報を手にしたのでしょうか。ソル老人以外にも、”本”と呼ばれる人間はいますが、そこにはひとつの共通点が存在します。条件と言ってもいいかもしれません。失われた情報を知っている理由もそこにあります。

それは「世界がまだ美しい姿をしており、豊かだった時代を知っている」ということです。

そうです。彼らは世界がボロボロになる前の美しい時代に生まれ、世界の変遷を目撃してきた人々なのです。彼らが持っている情報とは、”生きる”という経験の中で得たものだったのです。世界が動植物で溢れ、情報やモノが行き交う、豊かだった世界を実際に知っているのです。

今の世代の人間が知らない世界を、知りたくても知ることができない世界を知っているからこそ、”本”と呼ばれているのです。(そのため、”本”と呼ばれる人々はみな高齢です)

とはいえ、個人が体験してきた事柄で全ての事象を網羅することは不可能だと思います。あくまでも自分が経験してきた範囲のことしかわからないはずですからね。では、どうやって自分が知り得ない情報まで入手できるのでしょう。その答えは”本”仲間の集会にありました。

彼らは定期的に集まり、そこで情報交換を行うのです。そこには動物に詳しい者、法律に詳しい者、時事や事件に詳しい者など、それぞれ得意分野が異なる人々が大勢集まるはずです。そうした場で交流することで、お互いが持っている知識や情報を交換しあい、再確認しているのです。

上記において、”本”としての仕事のようにそういう集会を行っていると書いてしまいましたが、実際はかつての美しい世界を懐かしんだり、若かったころの思い出話をしたりといった、友人たちとの昔話なんかをする集まりだったのではないかという気がします。絶対に元には戻らない美しい世界と、現在の絶望しかない世界で”本”として余生を過ごす老人たちの気持ちを考えると、どうしても辛い気持ちになってしまいます。

暗い感じになってしまいましたが、劇中でソーン刑事がソル老人をとても大切にしてくれていることがかなり救いになりました。

こうして見ても、『ソイレント・グリーン』の世界観はかなりひどいです。本当に絶望しかありません。これでは生きることを諦めて死を選んだ方がマシだと思う人間が出てきてもおかしくありません。人間が生きていくには希望が必要なのですが、この世界にはもはや希望と呼べるものがないのです。ですので、残酷なこの世界に絶望した人間が大勢出てきます。

そして、そんな絶望した人間が最後に行き着く先が、「ホーム」と呼ばれる施設です。

この施設は荒廃したスラム街のような場所に存在しています。周りのひどく汚れた建物とは違い、外壁は真っ白で清潔感があり、施設からは優しい光が溢れています。

生きることに絶望した人にとって、この施設はとても眩しく見えたと思います。それこそ”希望の光”に見えたことでしょう。誘蛾灯のように絶望した人間を暖かく迎えるこの施設、一体何の施設なのかというと、”安楽死”をさせてくれる施設なのです。

絶望した人間が最後に見出す希望の光が”安楽死”というのもこの世界の特徴を如実に表していると思います。あまりにも悲しいことですが…

さらに、この「ホーム」の真に恐ろしいところは、絶望した人間が行き着く先がそこしかないということと、そうなるようにあえて仕向けているということです。政府にとっては食糧難や環境問題で手一杯の時に、希望など持たれては困るのです。一度絶望した人間が希望を持って再起するなどということは許されないのです。ですので、絶望した人間を確実に捕まえるために「ホーム」を設置しているのです。二度と現実世界に目を向けないように。

「ホーム」の真意が、救済ではなく処理にあるというところが、どうしょうもないくらいこの世界が歪んでいることを示しています。

このように、『ソイレント・グリーン』の世界観、本当にひどいです。

ひどいんですが、なかにはディストピアを描いている割にはそこまで悪くないのではないか、むしろ良心的ではないか、と思うようなシーンが実はあったりもしました。この映画が公開されたの1973年です。つまり、この『ソイレント・グリーン』の世界観は1973年当時の人々の倫理観や感性を反映して、最悪の未来を作り出しているはずです。ではなぜ、僕がその世界観を観てそこまで悪くないのではないかと思ったのでしょう。それは、現在に生きる我々からしたら、当時最悪とされていた事柄がそうでもない事柄になってしまっているということではないでしょうか。ちょっとゾッとしませんか。しかも、それをディストピア映画から教えられるなんて…

1973年の人類が予想したディストピアを、そこまで悪くないと思える現在の人類は(自分だけかもしれませんが)果たしていい方向に向かえているのでしょうか。もちろん、思想や倫理観などは時代とともに移り変わるものですがそれが必ずいい方向に向かうとは限りませんからね。少し気になりますよね。

最後に

本作『ソイレント・グリーン』はとてもおそろしい映画です。
少しでも気になった方は是非ご鑑賞を。隠された真相に迫る映画が好きな方はきっと楽しめると思います。

ソーン刑事が”昔ながらのいい刑事”という感じなので、ビクビクしながらもソーン刑事の後ろに隠れながら鑑賞するということを意識すると比較的安全に鑑賞できます。頼りになる奴が一緒にいると思うだけで安心感が得られますね。

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