エレファント

Image | IMDb

Title
Elephant
Release date
2003
Country
USA

"キスも知らない17歳が銃の撃ち方は知っている"

ストーリー

オレゴン州ポートランド郊外にあるワット高校。今日もまたいつもと同じ朝が始まる。
ワット高校の生徒であるジョンは、父親が運転する車で学校へと向かっていた。しかし父親の運転は危なっかしく、車はフラフラと蛇行している。父親が酒に酔っていると気づいたジョンは、父親と運転を変わり学校へ向う。学校には無事到着できたが、ジョンは遅刻してしまう。

ワット高校近くの公園ではひとりの男子生徒がカップルのポートフォリオを撮影していた。彼はワット高校の写真部に所属するイーライ。ポートフォリオの撮影を終えたイーライはワット高校へと向う。校内を歩いていると遅刻してきたジョンに声を掛けられ、二人はたわいもない会話をする。会話を終えたイーライは、ジョンのポートフォリオを撮影しようとカメラを構える。ジョンはカメラに向かってポーズをとり、ポートフォリオの撮影に快く応じてくれた。

女子生徒に人気のあるアメフト部のネイサンは校内の廊下を歩いていた。どうやらガールフレンドと待ち合わせをしていたらしく、彼女と合流したネイサンはランチへと向かう。校内のカフェテリアでは、いつも一緒にいる三人組の女子生徒たちがダイエットの話題や噂話などで盛り上がっている。どこか寂しそうで冴えない少女ミシェルは、日々疎外感と孤独感を感じつつもいつものように図書室のボランティアへと向かっていた。いじめられっ子のアレックスとエリックは、今日もクラスメイトから嫌がらせを受けからかわれている。

それは何の変哲も無い、いつもと変わらないワット高校の日常の風景。
その日もいつもと変わらない平凡な一日になるはずだった…

キャスト・スタッフ

監督
ガス・ヴァン・サント
脚本
ガス・ヴァン・サント
出演
ジョン・ロビンソン(ジョン)
イライアス・マッコネル(イーライ)
ネイサン・タイソン(ネイサン)
クリスティン・ヒックス(ミシェル)
アレックス・フロスト(アレックス)
エリック・デューレン(エリック)

「エレファント 」について

今回の映画感想は「エレファント」です。この映画は、1999年4月20日、アメリカ合衆国コロラド州にあるコロンバイン高校で発生した「コロンバイン高校銃乱射事件」がモチーフとなっています。

映画が始まると、高校生の日常が淡々と映し出されていくのですが、終始不気味な静けさや不穏な空気が流れていて非常に息苦しいです。しかし観るのが苦痛というわけではありません。むしろ校内や学生の描写はとても美しいです。「コロンバイン高校銃乱射事件」がモチーフとなっていることが、何気無い高校生の日常を不穏なものへと変えているのかもしれません。

また本作では、銃乱射事件についての犯行動機やその背景を明確に描いたり、後日譚で物語を締めくくったりといったシーンがありません。映画を観た一人ひとりが、事件について考えさせられるような構成になっています。

起きたことだけを淡々と描写

高校生による実在の銃乱射事件がモチーフとなっていますが、事件が起こった直接的な原因や犯人の動機、生徒同士の関係や高校生達の内面などがはっきりとわかるような描写はありません。ただただ起きたことだけが淡々と映し出されていきます。

そのため、「事件を起こした犯人はこれこれこういう理由であのような行動に出たはず」「あの人はあの時、内心ではきっとこう思っていたのではないか」など、観る人によってこの映画の感想は大きく変わるかと思います。

何気ないシーンひとつとっても様々な解釈ができる構成になっているように思います。どうやらこれはガス・ヴァン・サント監督が意図的にそうしたものらしく、“暴力を描く際、その原因や理由に都合のいい安易な説明を避けるため”だとか。

確かに、少年少女が何かしらの犯罪や事件を起こした際、その原因が家庭環境によるものだとか、読んでいた本やゲームに影響を受けたからだとか、様々な理由を推測して結論を出そうとしますが、(そういった分析などはプロファイリングや事件捜査の為には必要なことなのですが、影響力の大きいワイドショーなどでも安易に行われているのもよく見かけます)本当の理由は誰にもわかりませんし、事件を起こした本人にさえわからないところがあったりするのではないでしょうか。

10代の若者が抱えている複雑な感情や微妙な心の動き、将来に対する不安や希望、そしてそれらに影響を与える友人や家庭環境など、実に様々な要因が複雑に絡み合っています。そういった関係性を考えると、少年少女が起こした事件や暴力に対して理由をつけることはとても難しいことのように思いますし、大勢が鑑賞し、少なからず影響を受ける映画においては危険なことであるとも思います。ましてや実在の銃乱射事件をモチーフとしている映画なら尚更です。

しかもこの映画のモチーフになった『コロンバイン高校銃乱射事件』の犯人である少年二人は自殺しており、犯行の動機は残された遺書や第三者の証言、過去の言動などから推測されたものに過ぎません。事件を起こした本当の理由が正確にはわかっていないので、事実が正しく伝わらない可能性もあります。

劇中においてガス・ヴァン・サント監督が暴力の“理由”を安易に描いてしまうと、映画を観た観客の中にはその”理由”が事件発生の原因だったのかと思ってしまう方も出てくるでしょうし、そういった“理由”に影響を受ける若者も出てくるかもしれません。なにより、一人ひとりが事件やその背景にある様々な問題について考える機会が失われてしまうかもしれません。そうした理由からガス・ヴァン・サント監督は明確な“理由”付けを避けたのかもしれません。

もちろん、様々な情報を集めて分析し、事件の背景や原因、犯行の動機にアプローチしていく作品もありますし、そういった映画がダメだということではありません。ただこの作品に関しては、“理由”を明確にせず、観た人それぞれが「考える」というスタンスの映画だということに尽きると思います。そのために、本作はあえて「起きたことだけを淡々と描写」しているのだと思います。

タイトル『Elephant』の意味

一見、本編と何の関係もなさそうなタイトルなのですが、少し調べてみたところ『Elephant』というタイトルには様々な意味が込められていることがわかりました。それをいくつか引用してみます。

“Elephant in the room”という慣用句に基づいたもので、これは誰の目にも明らかな大きな問題があるにもかかわらず、それについて誰も語ろうとせずに避けて日常を過ごすとの表現からの引用である。

さらには「群盲象を評す」ということわざもあり、これは複数の盲人が一頭の象を触ってみて、象とは如何なる動物かと語ってみた逸話に基づいている。同じ象であっても、足を触った盲人は「木である」と言い、鼻を触れた盲人は「蛇である」と言った。「論ずる対象が同じであっても、その印象も評価も人それぞれに異なる」という意味であり、また「わずか一部分を取り上げたところで、その事象の全てがわかるわけではない」という意味でもあり、「群盲象を模す」「群盲象を撫づ」ともいう。

カンヌ国際映画祭の会見においてヴァン・サントは、アメリカ共和党の銃規制の方針などと、その党シンボルである象を掛け合わせて、スタッフが題名を考えていたとの逸話も語った。

Wikipedia 「エレファント (映画)」 より

こうしてみてみると、“暴力を描く際、その原因や理由に都合のいい安易な説明を避けるため”というガス・ヴァン・サント監督のスタンスとタイトルの意味が合致しています。「Elephant」というタイトルにはちゃんと深い意味が込められていたんですね。

「考える」ことの重要性

「原因や理由に都合のいい安易な説明を避ける」ことで映画を観た一人ひとりが「考える」という構成、本当に素晴らしいと思いました。
上記引用でも”誰の目にも明らかな大きな問題があるにもかかわらず、それについて誰も語ろうとせずに避けて日常を過ごす”とありましたが、これ、僕自身ものすごく心当たりがあります。皆がきちんと向き合って解決しなければならない問題があったとしても、問題がある状態が長く続くと人間はその状態に慣れてしまいます。慣れてしまうとその後に待っているものは無関心です。自分に直接影響がない、あるいは自身のこととしての実感が薄い事柄ではその傾向は特に顕著になるのではないでしょうか。

その問題というのは政治であったり、環境問題であったり、人種差別であったりと実に様々ですが、本来は無関心になってはいけない事柄のはずです。
一度無関心になってしまうと、そこから問題解決のために行動を起こすことは余程の事がない限り難しいのではないでしょうか。それこそ当事者としてその問題に直面するなどの状況にでもならない限り。

では、当事者として今まで見て見ぬ振りをしてきた問題と対峙し、あわてて声をあげ行動を起こしたとしても、自分のために声を上げ行動を起こしてくれる人が一体どれほどいるでしょう。
残念ですが、声をあげ行動を起こしてくれる人は少ないと思います。なぜなら今までの自分がそうしてきたからです。自分が他人のためにしてこなかったことを自分の時だけ他人がしてくれるといった虫のいい話があるわけがないですからね。

もちろん、いつの時代にもどんな場所にも、問題ときちんと向き合いこのままではだめだと行動を起こしてきた人々は大勢います。最初は小さな流れだったかもしれません。しかしその流れは自分には関係ないと思っていた人や、問題そのものに無関心になっている人に問題と向き合い「考える」というきっかけを与えてくれたはずです。そして一人ひとりが考え、行動を起こしてきたからこそ、人類はこれまでに大きな問題をいくつも乗り越えることができたのではないでしょうか。

話が大きくなってしまいましたが、ここで言いたいことは「考える」ことはとても重要だということです。自分には関係ない、問題そのものに無関心になっていたとしても、きっかけがあるだけで人は「考える」ことができます。そうです、そのきっかけを与えることこそがこの映画の”肝”なのです。

問題を問題であると明示することも大切ですが、その問題について一人ひとりが「考える」ことも重要なのだと思います。だからこそ、ガス・ヴァン・サント監督はあえて“暴力を描く際、その原因や理由に都合のいい安易な説明を避け”、「Elephant」というタイトルをこの映画に付けたのではないでしょうか。

誰が犯人になってもおかしくない

映画ではワット高校の生徒一人ひとりにスポットが当てられていくのですが、全ての登場人物には何か引っかかるものがあるような気がしてしまいます。一見とても充実しているように見えても、どこか表情には暗いものがあるように見えたり…

劇中の登場人物は皆何かしらの問題や悩みを抱えています。それに加え、学校内でのヒエラルキー、通販で簡単に買える銃、生徒の言葉に耳をかさない教師など、様々な問題がたくさん出てきます。これらのことから、無差別殺人のきっかけはどこにでもあって、いつでも起こりうるということが伝わってきてとても恐ろしいです。さらにアメリカの場合、銃社会というものが大量殺人を凄惨で手軽なものにしてしまうという事実にも衝撃を受けました。

上記のように、生徒達を取り巻く環境には“Elephant in the room”というべき問題が確かに存在するのですが、それが当たり前の状態となっています。当たり前となっているからといって問題がなくなるわけではありませんから、今回のような悲劇的な事件が起きてしまいます。そうならないためにも、一人ひとりが問題と向き合って考えていかなければならないのではないでしょうか。ここでもガス・ヴァン・サント監督が映画を観た人々に「考える」ことの重要性を訴えかけています。

自分なりの解釈を

これまで述べてきたように、この映画では明確な答えや後日譚などはありません。しかし映画を観た一人ひとりに「考える」きっかけを与えてくれます。

結論を出す必要は必ずしもありません。「考える」ことが重要なのだと思います。

事実、僕自身この映画を観て10代の若者たちの不安定な心や感情、学校や社会に存在する多くの問題を知ることができましたし、それについて考えたり調べたりすることもできました。アメリカが抱える様々な問題について知ることができる映画ですが、それをきっかけに自分自身を取り巻く身近な問題にも改めて気づくことができました。映画の題材となった事件に関する問題それだけでなく、そういった問題が至るとことにあってそれに気づき一人ひとりが考える。これこそガス・ヴァン・サント監督が意図したことなのだと思います。

最後に

映画は終始無表情とも言えるくらいに淡々と進んでいきますが、決して退屈ではありません。むしろその逆で、常に何かしらの感情を刺激させられている状態です。見ているものは高校生の日常なんですが、本当に不穏で不気味なのです。焦りや緊張が伝わってきます。もし少しでも気になったのなら、この映画を鑑賞することを強くおすすめします。

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